介護について調べているうちに気づいた。もともと介護は医療的なことができないから、どこか医療の下位互換みたいなイメージを持っていた。でも実際に知るほど、目指しているものが違うとわかってきた。普段は噛み合っているから見えない。看取りの時、その違いが顕著になる。
医療の目的は「生かすこと」。心臓を動かし続け、数値を戻し、一日でも長く。これは医療が積み上げてきた正しさそのものだ。
病気を見つけ、治療し、できるだけ長く命をつなぐ。その成果は生存率や余命、検査値として測ることができる。救急の現場でも、急性期の病棟でも、この目的は揺るがない。医療がなければ、そもそも「その先の時間」自体が存在しないことも多い。
介護が守ろうとしているのは、長さではない。
好きなものを口から食べること。自分で服を選ぶこと。名前で呼ばれること。住み慣れた場所で過ごすこと。「あと何日か」ではなく、「その日がその人の日であるか」。測りにくいけれど、本人にとってはこちらが本体だと思う。
治ることだけがゴールではない。治らない状態のなかでも、生活は続いていく。その生活を、最後までその人らしく保とうとするのが介護だ。
回復が見込めなくなったとき、「一日でも長く」と「その一日をどう過ごすか」は、同時には追いづらくなる。
どちらも正しい。正しいからこそ、誰かが選ぶしかない。そして、その時の本人はもう選べる状態にいないこともある。
口から一口食べたいのに管を通すのか。家にいたいのに病院のベッドに繋ぐのか。話したいのに声を奪う処置を続けるのか。一日延びることと、その一日がどんな一日かは、別の問題になる。看取りとは、医療の正しさと介護の正しさのあいだで、本人の最期の形を決める場面なのだと思う。
だからこそ、元気なうちに決めておく必要がある。
エンディングノートや、人生会議(ACP)と呼ばれる取り組みがある。最期にどこにいたいか。何をされたいか、何をされたくないか。誰に決めてほしいか。書いておけば、家族は「自分が決めた」ではなく「本人の望みを叶えた」になれる。
法的な効力の話ではない。家族への贈り物に近い。そして、これは元気なうちにしか書けない。高齢になってからのものでも、病気になってからのものでもない。選べるのは、自分で考えられる今だけだ。
医療は命の長さを守り、介護は命の中身を守る。どちらに支えられて最期を迎えるかは、自分で選べる。ただし、選べるのは元気な今だけだ。